明日、死ぬと思っていた時のこと

文字に起こすと心配されそうだけれど、一昨年から去年まではあまりの忙しさに毎日のように明日死ぬと思っていた。そう思っていた。しかも、極めて明るく。

 

希死念慮があったわけではないけれど、仕事と研究の二足の草鞋を履いて自分の興味関心を極めていく道のりの中で、不思議と死が私の毎日を照らしていたと感じられることが多かった。死はいつの日も日常に存在するタブーでもあるけれど、勇気づけられる不思議さを毎日享受していたように思う。

 

さくら「こんな忙しくて私も死くん側の人間になっちゃうかな~」

死「まぁなんとかなるよ、大丈夫、まだこっち来んなよ」

そんなやり取りが毎日のように自分の心の中であったような気がする。

 

もっと平易な言い方に直すとするなら「このまま永遠の眠りについても、これだけ命を懸けて頑張れたからそれで幸せ」「このまま目覚めることが無くても、それが私の寿命だったんだって納得できるな」…って感じかなぁ。朝起きて自分の命がこと切れていなかったことに安心することも実際に多かった。帰路で「変な人に話しかけられたら今日はもう戦えないな」とかもよく考えていた気がする。

 

なんなら、当時の手帳には辞世の句とかたまに書いてた。我が人生に一片の悔いなしなんて格好良いことは言えないけど。その当時は死に対して恐怖心が全くなかったのは自分の人生に於いて本当に不思議なことで、最近そのことをよく思い出すのは、きっと新型コロナウイルス感染症が変えてしまった社会環境のせいだろう。自分の望んだ道で「明日死ぬ」と思うのと、治療法が確立されていない世界を脅かす感染症で「明日死ぬ」と思うのは、明確な違いがある。あれだけ怖くなかった死が、いまは怖い。

 

時代の分岐点は過去から現在を遡ることで初めて見えるものだから、果たして将来どんな価値が付けられ歴史として語られるのかは分からないけれど、今年はさまざまな課題が白日の下にさらされている時代の分岐点のようにも思える。 歴史は繰り返すという定説を軸に考えると、大きな災害や戦争にならないか一抹の不安も覚えるけれど、本当に私たちの生活様式や価値観・環境が変わる予感がする。

 

平成と言うひとつの時代が幕を下ろしたことに去年の今頃は感動し、新たな時代に心を躍らせていたことがなんだか懐かしい。どうしようもできない時代の波にのまれ、悲しくつらい日がやってくるのかもしれない。今は何をあれこれ考えてもわからない日々なのだと思う。だからこそ、今は自分を見失わないように流されることが大切なのかなと思っている。そう思いながら、Oasisを近頃またよく聴いている。

 

Oasisは私にとって人生の真理を教えてくれるバンドだ。

肯定的な意味で流されるしなやかさと、

自分の意思を持ち続ける強さと優しさが楽曲に詰まってると思う。

やっぱりWhateverは自分の中で別格だなぁ。

ギャラガー兄弟の暴言は頂けないけれど。笑

youtu.be

いまのところ「Oasisの楽曲は人生のテーマソング」と話して分かってくれたのは、

Pretty Greenのスタッフのお兄さんだけだ。

ちなみにPretty Greenのスタッフのお兄さんは、

Live Foreverが人生のテーマソングらしい。

Live Foreverも名曲。

現実に打ちのめされても、そこから逃げずに

ちゃんと自分で考えて生きていこうと思える名曲。

Pretty Greenって代官山にいまも店舗あるのかな。

 

失ったものや過ぎ去った時間を嘆かずに、

受け止めていこうとする優しさが溢れている

Don't look back in angerとWonderwallも大好き。

Little by Littleも好き。

 

でも最近、一番響くのはThe Shock Of The Ligntning。

youtu.be

久々に聴いたらすごく格好良くて震えた。

Oasisの歌詞ってブロークンイングリッシュだとか言われているようだけど、

私はOasisの歌詞がすごく好き。

 

何通りにも解釈ができるし、人の解釈を見聞きするのも好き。

この曲は自身を鼓舞するような歌詞でもあり、無敵な感じもする。

謎の高揚感をもたらす官能さもあるように思える。