夏の怪談的な

お酒は人の本性を暴くとよく言うけれど、恋も一種それに近いものがあるよなぁと思う。お酒は飲みすぎてもせいぜい2日程度で醒めるし、酒場での失敗は寛容に水に流す文化がそれとなく浸透している感じがあるけれど、恋は醒めるのに時間もかかる。むしろお酒よりもタチが悪いのではないか。

 

若い頃は周りの恋バナ(死語?)を聞いていて「〇〇ちゃん(くん)ってあんなに真面目だったのに、恋人を取っ替え引っ替えする人だったんだ...ショック」「〇〇ちゃん(くん)ってこんなに自慢や惚気が多い人だったのか...」と周りの話を聞くたびに自分が未熟だからそう感じるのかと思っていたけれど、歳を重ね様々な恋愛を経験してみて今や確信的にそう思う。

 

特にウェディングハイやマタニティハイは、恋が本性を暴く頻出パターンなんじゃないか。先輩方から聞いていた「ウェディングハイはやがてマタニティハイに移行する」「わりかし浅い付き合いの友だちのハイに悩まされる」というのは金言で、そういえば私も数年前に思い悩んだことがある。

 

元々浅い付き合いだった友だちから、結婚式への参加と動画撮影への協力要請の連絡があり、いずれも既に先約があった私は動画撮影に協力できなかったこと・式に出席できないことのお詫びを添えて彼女にお祝いを贈ったのだった。親しい間柄の友人ではなかったものの、思い出して連絡をくれたことに嬉しさと有難さを感じてささやかながらもお祝いの気持ちを伝えたくて。

 

しかしそれが発端となり、高額なお返しが贈られてきたり、その後の連絡や度を越したマタニティハイに悩まされるようになったのだった。普段私の交友関係について何も言わない当時の彼氏までも「こりゃ完全にロックオンされてしまったな」「研究も仕事も健気にやってるさくらねこを妬んで婉曲して攻撃しているんじゃないか」と心配や苦言を呈すほどだった。

 

私自身は当時まだ結婚や出産どころではない生活を送っていたけれど、周りでは結婚や出産に悩む友人が男女問わず多かった。そのため、彼女のそういった人への配慮が足りない点や様々な選択肢を尊重できない点にやり切れなさが募っていったあの日々は、今まで社会性に包まれていた彼女の本性や内面が恋愛によって剥き出しになってしまったと考えられるのではないだろうか。

 

若い頃と違って、ひとたび異性と深い関係になれば枝葉のようにお互いの財産や家や仕事もくっついてくる。恋愛に対する責任もどうしたって大きくなる。程度の差は様々だけど、何をどうしていきたいかを見つめて話し合うことは避けられない。残酷だ。でも、生きるためだから仕方がない。そんな過程の中で良くも悪くもお互いの本質が見えるパターンもあるように思う。

 

恋愛は、人間の人となりを暴く。

恐ろしや恐ろしや。夏の怪談かな。

梅雨の夜が更けていく

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本日は、晩酌しながらのお届けです。

(ラジオのDJ風)

 

カレー風味のサバ缶豆腐ナゲットと味噌汁にしようか迷いが表現された千切りキャベツ。

この時期は大葉を混ぜ込んで食べるのが好き。

 

7月中旬まで、あっと言う間でした。

下半期に差し掛かるにあたって、今年の上半期を振り返るという意味でもたくさんブログ記事の下書きは作成してあるのですが、仕事の忙しさと疲れで全部中途半端になってひとつも書き終えられていない。無念じゃ。

 

夏の過ごし方がひとつ増えたと思って、楽しみながら完成目指してゆっくり書いていこうと思います。

 

以前何かの本で読んだ話だけど、女性は色んなところから自分なりの癒やしや幸せを見出すことが上手いという言説を見かけたことがある。

 

事実、周りの女性ってそれぞれ癒やしや幸せを生活に見出していて、話の流れでお互いの癒やしや幸せを取り入れたり参考にすることがあるし、それで話が盛り上がることも多いように思う。

 

私をよく知る人から言わせるとと、特に私は女性の中でも幸せハードルが低い傾向にあるらしい。自分を内省してみると、恥ずかしながらかなり子どもっぽい所があって、ちょっと好きな食べ物を口にしただけで何かにつけて幸せ〜って言っている気がする。 あ、そういえばさっき、ソファに座って幸せって言ったばかりだわ。

 

幸せって日々の積み重ねだとしみじみ思う。普段の生活が多少の波乱に満ちていたとしても、それなりに穏やかに満ち足りた生活を重ねてきた基盤があるからこそ、たまの特別な日やイベントも楽しめるんだなぁと帰省も危ぶまれるいま、身に染みて感じます。

 

誰かと会って顔を合わせて話したり、好きな食べ物を食べに行ったり、たまの遠出や買い物をすることもままならない毎日の中で、小さな幸せを積み重ねるのが難しいけれど、我が身に備わった幸せハードルの低さを活かして、この夏をうまく乗り切れるといいなと思っています。

 

...金麦も、ナゲットも、美味しくて幸せ。

 

そこまでの熱情じゃないのに

私には、あまり好きな芸能人がいない。

 

好きと言っても「この人の演技好きだな」とかその程度でwikipediaを眺めて出演作品をチェックする程度のもので、好きな芸能人のために公開初日に映画館へ足を運んだり、発売初日に何かを買う事もない。

 

しかし不思議な事に、芸能人の結婚や引退というニュースを聞くとそこまで熱心なファンでも無いのに結構なショックを受けてしまうことがある。

 

去年あたりに眞島秀和さんがご結婚されているというニュースを聞いた時はなぜかショックで友だちにLINEまでしてしまったし、まゆゆの芸能界引退についてはかなりのショックでYahoo!ニュースのコメント欄を丁寧に読んでは共感したり気持ちを落ち着けていた。

 

一体、この現象は何なのだろう。少女漫画とかでよくある「実は好きだった」ってこういう事なのかなぁ。

 

生活の端々でコロナの影響を感じます。

仕事では届くものが届かなかったり、発売日が変わったり。延期になったり。

 

そういった影響って微々たるようで他の業務にもつながっていて、平常時とは異なる処理をたくさんしなければならないのでずっと忙しい。仕事柄、元々休憩時間なんてあってないような物だけど、最近はそれに拍車がかかっててプロテインバーやエナジーバーがお供。

 

疲れ切ってしろくまカフェを観ながら昨日は丸一日寝ていました。

動物と人間が支え合ってユーモアたっぷりに仲良く暮らすこの街に住んでみたい。

都内でいえば等々力渓谷のあたりが思い浮かぶようだ。

 

この2-3ヶ月食料品や日用品はネットスーパーで配送してもらっているので、近頃店頭で物を買う時の感度が落ちていて、ちょっと何かが足りなかったり急に切らしてしまった時、店頭で何かしら買い忘れをしてしまうことが増えてきている。

 

一昨日、ごほうびスイーツとして湘南プレミアムのプリンを成城石井で買った時、手巻き納豆とトレイルミックスも調達して帰るつもりだったのに見事に忘れた。

これも思わぬコロナ禍かな。これから脳トレも必要になってくるかもね。

風に吹かれて

youtu.be

アヒルと鴨のコインロッカー』を観てから、

ボブ・ディランの風に吹かれてを歌いがちな日が続いている。

 

急に風に関する曲が聴きたくなって、

エレファントカシマシの『風に吹かれて』

サカナクションの『多分、風。』

GRAPEVINEの『風の歌』

はっぴぃえんどの『風をあつめて』もよく聴いている。

 

そろそろ、村上春樹の『風の歌を聴け』を読むべきだろうか。

le petit prince

ものすごく繰り返し読んでいるわけでもないのに、

なぜか捨てられない本としてサン=テグジュペリの「星の王子さま」が挙げられる。

 

"いちばんなたいせつなことは、目に見えない"の一節であまりにも有名な作品。

 

初めてこの本を読んだときは、愛や友情や時間は目に見えないけど生きていく上で一番大切だということを著した本なのだなと思っていたけれど、未熟な解釈だったなと駅を行き交う人々を横目にふと思った。

 

確かあの本を初めて読んだのは中学生の頃で、母が昔を思い出して読み返していた新潮文庫をなりゆきで私がずっと持っているから、もう15年くらいの前の話になる。

これだけ年数が経っていれば、解釈が変わるのも当然といえばそうなのだけど。

 

"いちばんたいせつなことは、目に見えない"の究極って、

変化のことなんじゃないかと思う。

今この瞬間、駅で行き交う人々にもそれぞれの日常があって、

当人からすればいつもと同じ毎日を送っているように思えるかもしれない。

 

けれど、少しづつ、少しづつ、変わっている。

自分も、周りも。

 

身だしなみや服装の好みや美味しく感じる食べ物。

好きな場所、仕事や勉強の仕方や、人との付き合い方。

 

変化の始まりはいつもクレープ1枚の薄さのようでいて、

味気もさほどなく、言われなければ分からない事も多い。

たかだかクレープ1枚程度の薄さと思う人も中にはいるだろう。

けれど、ミルクレープみたいに変化の層が積み重なることで、

私たちの価値観や日常が変わるような出来事だったり、

大きなチャンスや変化がもたらされるのだろうと思う。

 

思わぬ道草は人生につきものだからこそ、

変化アンテナをちゃんと研ぎ澄ませておくことが

いちばんたいせつなんじゃないかと30歳の私は考える。

 

明日は部分日食が見れる日なのに、首都圏の予報は雨。

星も月も見えないかなぁ。

雑談とりんごの木

もう熱中症になりかけた今週。

 

お風呂に入って夜ご飯も食べて、ひんやりしたお部屋でのんびりしているうちに椅子で眠ってしまい、夢うつつの状態で冷房を切ってしまったのが悪夢の始まり。

 

深夜に大量の汗と手足のしびれで目覚めてから、眩暈がおさまらない。慌てて水分取って冷房かけて休んだら良くなったけど、今年はマスクもしてるし先が思いやられる。

 

2年前の6月に初めて熱中症にかかってから、何だかかかりやすくなってる気がする。コロナも熱中症も紫外線も人一倍気をつけてるつもりだけど、より一層気をつけなきゃ。

 

週明けは35℃らしい。コロナで外に出られないと言うより、これからは猛暑で外に出られない日も増えるだろう。

 

ニュートンのりんごの木について、この頃想いを馳せている。と言うのも、職場でカミュが著した「ペスト」について話したからなのだけど、あの万有引力の法則はコロナ禍ならぬペスト禍の最中に発見されたという言い伝えがある。

 

ニュートンほどの大発見はわたしには到底出来ないけれど、職場と家の往復しかできず先を見通せない毎日が続く時だからこそ、できることや考えを深められることはきっとあるに違いない。だからこそ、まずは会える人との何気ない雑談を私なりにもっと大切にしたいと思った1週間だった。

 

好きなお菓子やよく食卓に登場する料理、ハマっている動画。気になる中吊り広告やちょっとした事件。

 

話さなくても生活に差し支えないことを、あえて話す事が小さな幸せや思わぬ発見につながるように思うし、今は何でもない些細な話をすることが大切な気がするのだ。けれど、隣のマンションに靴下が吹っ飛んで行った珠玉のネタを話す機会はまだ先になりそうだなぁ。

 

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それにしても、小石川の道端に咲く紫陽花はやたら大きい。バレーボールやサッカーボールくらいあると思う。

 

小石川の名所の一つと言えば、小石川植物園

ここにはニュートンのりんごの木がある🍎

いつか観に行ける日を心の支えに、今晩は雨音に耳を澄ませて今後の予定や計画を考えようか。

見えない壁

同じ5歳差でも、昭和生まれと平成生まれの間にジェネレーションギャップを感じることがある。 年末年始に帰省した際に、同級生と「令和に変わって私たちも年寄りだね」と話をしていた時のこと。昭和と平成の5歳差に関するジェネレーションギャップの話題が出て、思わぬ盛り上がりを見せた。

 

私たち90年生まれにとって、5歳差に該当するのが35歳の人と25歳の人だ。平成生まれの25歳の人と話す時は然程ジェネレーションギャップを感じないのに、なぜか昭和生まれの35歳の人と話す方がジェネレーションギャップを感じることがあると共感の渦が巻き起こった。35歳の人の方が社会的に大きな立場であることや年上である事を抜きにしても、時折ワーディングに見えない壁を感じることがあって、まごついてしまうことがある。

 

具体的例としては「デート」。「デート」という単語は聞いたことがあっても、平成生まれにとっては馴染みのない言葉だと思う。本やなんとなくの意味しかわからないというか、感覚的にしっくりこないし使っている人を周りで見かけない。異性と遊びに行く=デートと理解しているけど、果たしてそれで本当に合っているのか確証が持てない。

 

Mr.Childrenの曲にデートクラブっていう単語が出てきた記憶があるのだけれど、どういう意味なのか分からないなぁと思いながら聞いていた記憶がある。前後の文脈からしてこの場合は援助交際パパ活に近いものを感じるけれど、実体がまるでつかめない。

異性と遊びに行ったり食事に行くことはそこまで特別なことだと思わないけれど、なんとなく年上の人が言うデートって煌びやかな特別感が感じられるので、どう返答すべきか少し悩んでしまう。

 

38歳を迎えた年上の友人から「うっすらだけど小学生の頃まで羽振りの良い大人がいた記憶があるし、大学生の頃はエビちゃんもえちゃん全盛期で、みんなお嬢様スタイルでブランドバッグで通学してる子が当たり前だったんだよ。彼氏だって車持ってる男の子だっていっぱい居たし一緒に出かければ支払ってくれる事だって多かったし、2人で出かけるって事にさくらちゃん含め今の若い子たちより特別感あったよ。何だかんだいって今の子たちよりも豊かさはあったよ。」と言われて驚きだった。

 

デートという言葉に煌びやかな特別感を感じるのは、バブルの豪華な残り香なのだろうか。それとも90年代は良かったという年上の方々の思い出の輝きなのだろうか。

私たちが35歳になる頃、どんな言葉が見えない壁となるのだろう。

 

言葉はいつも想像を超えるものだから分からないけれど、案外「やばい」あたりが見えない壁となりそうな気がする。